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三本木小学校の歴史探索 第6回 これからの「勤倹力行」と二宮金次郎

 現在、登校してくる子供たちを日々見守っている二宮金次郎(尊徳)の石像は3代目に当たりますが、その台座の正面に刻まれた「勤倹力行」という文字は、像が設置された理由をしっかりと伝えています。最終回となる今回は、正門前に立ち続けてきた二宮金次郎像から、時代と共に変わってきた「勤倹力行」について歴史探索していきたいと思います。
 二宮金次郎像といえば、以前は多くの小学校に設置されており、小学校にある像の代表的なものでした。しかし、次第に撤去されるなどしてその数を減らし、現在ではほとんど見かけることがなくなっています。私の印象でも、金次郎は戦前戦中教育の象徴として遠ざけられ、現在ではその業績や生い立ちを取り上げることは全くなくなっています。ですから、子供たちにとっての金次郎は、「聞いたことはあっても、その業績や生い立ちなどは知らない人」であり、「歩きながら本を読むのは危険だよね。」などと、交通安全の反面教師にさえなっていたように思います。
 二宮金次郎は、江戸時代に小田原市の裕福な農家に生まれ
ました。しかし、二宮家は川の氾濫で田畑を失い、その後
両親も亡くなったため、金次郎は叔父に預けられます。叔父の家では、夜、本を読んでいると「お前は誰のおかげで飯を食っているのだ。油がもったいない。」と言われ、更には、空き地に植えた菜種と油を交換し、自力で手に入れた油の灯りで本を読んでいると「お前の時間は俺の時間だ。百姓に学問はいらない。」と叱られたのだそうです。金次郎の像が薪を背負い歩きながら本を読む姿になっているのは、そのような事情によります。
 その後、独立した金次郎が勤勉と倹約に努め、実家を以前のような裕福な家に再興したところ、その実績が認められ、藩や村の財政再建を頼まれます。そして、それらを次々に成功させた金次郎は、その生涯に615の村々を立て直したのでした。金次郎は、「勤労※1」、「分度※2(倹)」、「推譲※3」を人々に勧め、「積小為大※4」や「五常講※5」を人々に説きましたが、死後にその教えを受け継ぎ、地域の農家が寄り集まってできた「報徳社」の「講※6」としての役割は全国各地に広がり、農村再興に大変役立ったとのことです。
 では、このように優秀な農村経営コンサルタントだった二宮金次郎(尊徳)の像が、なぜ小学校に設置されたのでしょうか。
 これまでにも何度か引用させていただいている「思い出すまま 思いつくままに」※7の中にも金次郎像について次のような記述があります。
「正門を入ったところに、薪を背負い本を読んでいる姿の二宮金次郎の立像がある。二メートルほどの台座の上のこの銅像は、勤倹力行の模範としてどの学校にもあったところを見ると、国の指示によって建立されたものらしい。」
 明治20年代から30年代にかけて、金次郎の子供時代の逸話が、「修身※8」の教科書に取り上げられるようになりました。また、1894年(明治27年)には報徳二宮神社が設立され、神に祭り上げられた金次郎は、本人の意志・業績とは関係なく、「勤勉、倹約して国家に奉仕する理想的な臣民像」として国家の目的のために利用されていったのです。
 戦前・戦中の小学生が「学校のシンボルとして登下校のたびに必ず礼をした。※9」負薪読書の二宮金次郎少年の像、これは国家と時代が求めた理想の国民の姿でした。はじめは日露戦争後の経済不況と社会主義の勃興に対して、経済の立て直しと国の目的に沿った奉仕の心を育成するため、「勤勉」「倹約」「推譲」などの金次郎の言葉が使われました。そして、昭和初期には、戦争に向かう機運の中でお国のための勤倹力行が求められてくると、金次郎像はそのシンボルとして学校に設置されるようになっていったのです。
 昭和10年に設置された初代の銅像は、「大砲や銃弾になって敵をやっつけるのだから、出征兵士と同じ(当時の校長の言葉)」という考えの下、戦時中の金属類回収令により、全校児童が並んで見送る中、赤いたすきを掛けられ、リヤカーに乗せられて運ばれていったといいます。そして、戦後設置された2代目金次郎像は、コンクリート製でしたが、「お国のため」などの国策遂行の目的をそぎ落とし、理想の人間像として子供たちを見守り続け、劣化のため石像に取り替えられてからも現在まで同じ場所に立ち続けています。
 勤倹力行を辞書で調べれば、「よく働き、つつましい生活をし、何事にも精一杯努力すること」という意味が記されていますが、そこには戦争に突き進んでいった戦前の教育の陰は見えません。むしろ自らを律するため、常に心に置いておきたい言葉に思えます。金次郎は、農民の暮しを少しでも良くするために農村の経営改善に努力した人であり、決して完全無欠のスーパーマンでもなく、神様でもありませんでした。唯々自らも含めた農民の幸せを願い、よく学び、よく働き、精一杯努力した人だったのです。校門前に立つ金次郎像は、今日も優しい眼差しで登校してくる子供たちを見守っています。そして、これからも三本木小の子供たちの幸せを願い、健やかに成長していく姿を静かに見つめていくことでしょう。私たちは、その姿を通して、学ぶことの喜びや目標に向かって努力し続けることの大切さを伝え続けていきたいと思います。