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三本木小学校の歴史探索 第2回① 青い目の人形物語その1 ~戦禍を超えて受け継がれた平和への願い~

 本校の校長室には,ガラスケースに入った1体の人形があります。名前はベティ・ジェーン。ブロンドの髪に緑の目,紫色のロングスカートに同色のベストとつば広の帽子を合わせた衣装を着けています。このベティーは,今から95年前の昭和2年(1927年)にアメリカからやってきた12,739体の“青い目の友情人形”の一つです。
今回は,ベティ・ジェーンの物語から時代の大きな流れの中にあっても,平和や友情を希求できる人間の可能性について考えてみたいと思います。
♪青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド♪
 野口雨情作詞のこの歌がつくられた頃(大正9年),わが国の教育界では国際愛が叫ばれ,全てが国境を超えた愛の教育でなければならないといわれていました。一方アメリカでは,中国系の移民が禁止される*などアメリカに暮らすアジア人には様々な制限が加えられ,日本人への排斥活動も盛んに行われていたのです。*中国人排斥法(1882~1943)
 日本に長く暮らしたアメリカ人宣教師のギューリック博士は,帰国後にそのような社会情勢を憂い,「人形
のつぶらな瞳の中には戦争や憎しみではなく,生命(いのち)を限りなく愛おしむ平和な心が宿っている。」と考え, 「友情の人形」を日本の子供に贈ることを全米に呼び掛けました。すると,260万人というたくさんのアメリカ人が協力を申し出,12,739体の青い目の人形が集まったので す。
 昭和2年(1927年)のひなまつりに間に合うように運ばれてきた“青い目の人形”たちは,日本各地の小学校や幼稚園に届けられ,ひなまつりだけでなく,遠足や運動会,歌や劇にも仲間入りしてアメリカと日本の友情を深めていきました。宮城県に届けられた221体のうち8体が今も残っています(H15.8.30時点の確認数)が,そのうちの1体が本校のベティ・ジェーンです。
 日本人排斥の嵐の中からやってきた,アメリカからの友情の「印」は,太平洋戦争の勃発によって敵・鬼畜米英への憎しみの「印」に変わり,そのほとんどが政府の命令のもと,竹槍で突かれたり焼き払われたり,海や川に捨てられたりしてしまいました。友情と平和の印は,戦争の憎悪によって葬られてしまったのです。しかし,平成15年時点で313体の青い目の友情人形が残っていたことが分かっています。さて,これは何を意味するのでしょうか。12,739分の313,これは単なる誤差や偶然なのでしょうか。いいえ,私はそうは思いません。この313は,平和を希求する強い意思が表れた数です。戦時下にあっても,友情を大切に思い,平和を願って時代の激流にあらがい続けた日本人がいたという証なのです。
 本校に贈られたベティ・ジェーンは,太平洋戦争中に姿を消していましたが,昭和61年に帰ってきました。当時準訓導として勤務していた我妻義正先生が,校長の処分命令に逆らいかくまっていたのです。我妻先生は当時の新聞のインタビューに「命令に従わなかったのは遺憾だったが,見つかった瞬間は,なにか責任を果たしたような感じがしました。」と発見時の心境を語っています。友情と平和の印を守り抜いた313人の一人が三本木にいたことを誇りに思います。
 今,ロシアのウクライナ侵略戦争によって,多くの人々が命を落とし,家を失い,生活と希望をなくしています。そして世界中が「ロシアの暴挙許すまじ。」と怒りの声を上げています。しかし,こんなときだからこそ,友情の人形を贈ってくれた260万人のアメリカ人や我妻先生をはじめとした313人のことを忘れてはならないと思うのです。ロシアにも友情を信じ,平和を願う人々がいるのですから。ベティ・ジェーンのグリーンアイズに見つめられながら,改めて国際親善と平和について考えさせられた歴史探索でした。
 なお,三本木小学校の青い目の人形物語には続きがあります。本校ホームページには,関連資料も掲載していますので,今に続くベティ・ジェーンの物語をどうぞご一読ください。(文責 高橋)


【参考資料等】
・河北新報記事(昭和61年9月14日)
・大崎タイムス記事(昭和61年9月18日)
・マイタウンふるかわ記事(平成2年7月30日)
・日本赤十字社愛媛支部ホームページ
・「お帰りなさい『ミス宮城』― 2003年里帰りの記 ―(2003.12.5 みやぎ「青い目の人形」を調査する会・齋藤俊子)」