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第1回  明治5年6月開校の謎 ~ 三本木の人々の教育への熱い思いが小学校を創った?! ~

 本校の学校沿革史は,「明治五年六月学校創立 文部省頒布の学則ヲ奉ジ,三本木村,高柳村,南谷地村ヲ聨ネテ初メテ村立小学校ヲ三本木村ニ開設シ,村医伊東休栄仮教師ヲ命ゼラル」という記述から始まり,本校の開校を明治5年(1872年)6月としています。このことについては,昭和41年発行の「三本木町誌」にも同様の記述があり,平成17年発行の「三本木の歴史」には,「学制発布にさきがけ,私塾青虹館医師伊東休栄が仮教師となり,自宅を仮校舎として小学校の基礎を創った。(p279)」と記されています。
 しかし,一つの疑問が頭をよぎります。
 「なぜ,明治5年6月開校なのだろうか。」
 今回は,学制発布にさきがけて本校が開校した謎を探ってみたいと思います。
 下のように,学制の発布は明治5年8月であり,本校開校時に学制は頒布されていませんでした。ご存じのとおり,学制とは,明治5年8月2日に太政官より発された我が国初の近代的学校制度を定めた教育法令のことであり,現在に続く学校制度の基はここにあります。ではその発布2か月前に本校が創られたのはなぜなのでしょう。
  明治4年7月 廃藩置県 文部省設置
  明治5年6月 三本木小学校創立
  明治5年8月 学制発布
  明治6年7月 学制に基づいた第七大学区第二中学校区十三番三本木小学校を正式に設置
 明治4年,廃藩置県が行われた直後に創設された文部省は,全国民を対象とする教育制度の策定に乗り出し,同年12月には実地研究のために共立の小学校及び洋学校の設立に動き出しました。その際の文部省布達には,学制公布についての政府の宣言書ともいえる「学制序文(被仰出書)太政官布告第二百十四号」に通じる教育観や学問観が表れており,欧米の近代思想に基づく,個人主義・実学主義の学校設置方針が示されています。学制が示す方針は,発布に先立ち,すでに広く全国に知られていたことがうかがえるのです。
 さて,ここからは筆者の想像になりますが,廃藩置県や文明開化,四民平等による価値観の大転換は,主君のため,国のためにするものであった教育・学問を個人のためのものにし,庶民にも手の届くものにしました。そして,「立身出世のためには,学校で学ばなければならない。」いう新しい教育方針は,もの凄い速さで全国津々浦々に広がり浸透していったと思われます。勿論,三本木も例外ではなく,多くの人々が新しい世の中への期待に胸を膨らませていたはずです。
 そのような中,海外の事情にも明るい医師であり,私塾を開いていた伊東休栄の周りには,新しい学びを欲する多くの人々が集い,近代的な学校の開設を求めたのではないでしょうか。「オラホの村にも小学校を!」そんな市井の人々の教育への熱い思いは,新政府の動きを待たずに,小学校設立に突き進む原動力になったのでしょう。人々の思いが創った学校,それが我が三本木小学校であり,学制発布を待たず,明治5年6月に本校が開校した謎の答えもそこにあるのではないでしょうか。
 明治5年6月開校には,「三本木小学校を創ったのは,お上ではなく自分たちだ。」という,三本木の人々の強い自負と教育への情熱が表れているように思えます。私たちは,そんな先達を尊び自慢に思うと共に,その思いをしっかりと受け継いでいかなければならない,そんな思いを新たにすることになった歴史探索でした。(文責:高橋)

【参考文献等】
・「三本木小学校沿革史」
・「三本木町誌 上巻」昭和41年発行/三本木町誌編纂委員会編
・「三本木の歴史」平成17年発行/三本木町町誌編さん委員会編」
・文部科学省ホームページ